茨城県土浦市・庭園を望む完全個室プライベート空間で月替りの本格会席料理をご堪能下さい。霞ヶ浦では料亭の貸切屋形船も運航

霞月楼の歴史

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1889年(明治22年)

初代女将・堀越ハツが土浦町中城919番地(現在地)に「割烹 霞月楼」を開業。「霞月楼」の名前は、本家であり、先輩格の「割烹 日新楼」の「日」に対し、霞ヶ浦に映る「月」を表した。

創業当時の外観

創業当時の外観

初代女将 堀越ハツ

初代女将 堀越ハツ
(1850~1909)

1909年(明治42年)

ビュイック

大正初期の霞月楼。門柱の看板の上に電話番号の「16番」の札がついている。
車は土浦ハイヤー(大正5年開業)のビュイック。

1921年(大正10年)

記念写真

正月であろうか。お気に入りだった霞月楼二代目女将満寿子(左上)や、
芸者衆と記念写真に納まるセンピル大佐(左)とセンピル夫人(中央下)、乳母(右)

摂政宮殿下(後の昭和天皇)霞ヶ浦航空隊視察

大正11年、摂政宮殿下(後の昭和天皇)霞ヶ浦航空隊視察。
センピル大佐はこのとき、案内役をつとめた。

カゲツママサン

帰国後、センピル夫人から「カゲツママサン」
(二代目女将・満寿子をこう呼んでいた)に贈られた。

1924年(大正13年)

山本五十六

霞ヶ浦海軍航空隊副長だった若き日の山本五十六
当時の航空隊には「KG」という内輪の暗号があり、これは霞月楼のことをさしていた。

連合艦隊司令長官

連合艦隊司令長官となった頃の写真

二代目・堀越正雄

二代目・堀越正雄
(1876~1943)
東京暮らしが長かったこともあり
当時はダンディーで鳴らした。

二代目女将・満寿子

二代目女将・満寿子
(1878~1943)
<初代ハツの娘>

航空隊副長時代

航空隊副長時代、新潟出身で関東に身寄りのなかった山本五十六に、正雄・満寿子夫妻はその当時から親代わりのように接してきた。十余年の後、連合艦隊司令長官となった五十六から一通の手紙が届く。昭和16年12月5日付けのその手紙は、太平洋戦争へ突入する真珠湾攻撃直前に旗艦長門から発信されたものであった。

米国駐在武官の経験から、誰よりもアメリカの底力を知る五十六は、日米開戦を目前に複雑な思いの中でしたためたのであろう。「最後の御奉公」という言葉が暗示的である。五十六は昭和18年5月、戦死を遂げるが、その悲報を知ることなく、夫妻は同年の1月に相次いで他界している。

1929年(昭和4年)

ツェッペリン伯爵号

1929年(昭和4年)8月19日。海軍機に誘導されて霞ヶ浦へ向かうツェッペリン伯爵号

歓迎式典

霞ヶ浦航空隊で開かれた歓迎式典。エッケナー博士(右)とレーマン第1船長(中央手前)

エッケナー博士歓迎会の献立

エッケナー博士歓迎会の献立。二代目・正雄が記録していた。

1931年(昭和6年)

殺到する報道陣

1931年(昭和6年)8月26日。リンドバーグ・アン夫妻、霞ヶ浦に着水。殺到する報道陣。

町民の大歓迎

飛行場から土浦へ入った夫妻は駅前で町民の大歓迎を受けた。
夫妻の間はフォーブス駐日アメリカ大使。

歓送パーティー

霞月楼・松の間で開かれた歓送パーティー。リンドバーグと中央に座るのは航空隊松永副長。
その右にアン夫人が見える。右端は佐薙大尉。左端にはヒルス技師。その奥に霞月楼の堀越正雄も見える。

ロッキード・シリウス号

リンドバーグの愛機「ロッキード・シリウス号」

1945年(昭和20年)

寄せ書き

KGと呼ばれて、海軍さんから愛された当霞月楼でございますが、御馴染みだった士官さん達も、特攻隊として次々と戦死されました。その頃の送別の宴に際して、当店の屏風に残された寄せ書きでございます。芸者の似顔絵や御座敷名もかかれております。悲しくも、辛い歴史を秘めたものでございますが、この機会に掲載させていただきます。

吉田茂元首相

吉田茂元首相

首相を退き、池田勇人とともに遊説の際に立ち寄った。床の間に小川芋銭の絵がかかる松の間にて。

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